テクノロジーの中でも、特にAIについて話すことは難しい。
私は過去1年間、ブッククラブやスタートアップイベント、カクテルパーティーなど様々な場面において、AIトピックを通じ、多様な人々と関わってきました。技術哲学の背景を持つ私は、常にテクノロジー、人、社会の相互間の作用に魅了されてきました。しかし、この1年は真の転換点であり、生成AIの飛躍的な進歩を目の当たりにした人々の態度は、この技術に対し、興味深い方向へと変化しています。困難な時代には素早い適応が求められます。私たちは皆、説明を求めてきました。そして、これらの話題を通じて、私のテクノロジーに対する見方は少数派なのだと初めて実感しました。
私の記憶に特に強く残っているある出来事があります。それは約半年程前に、テック業界で働くプロダクト・マネージャーや開発者を中心としたグループに、AI倫理の現在の問題についてプレゼンするよう依頼されたときのことです。ケイト・クロフォードの『アトラス・オブ・AI (Atlas of AI)』に触発された私は、ジェンダー・バイアスとAI技術に関連する環境コストについて熱く語りました。すると、参加者の一人であるデータ・エンジニアが私にこんな質問を投げかけました:
「なぜこのようなこと(=AI倫理)に興味を持つのですか?」
アルゴリズムとは、私たちが無作為に収集したデータを基に構築されたものです。アルゴリズムに偏りがあるのは、この世界に内在する偏りが反映しているだけです。それなのに、なぜわざわざ手作業で修正しようとするのですか?
私はAI倫理についてこのような視点で考えたことはありませんでした。なるほど…これは私と異なる視点です。わかりました。しかし、私が本当に困惑したのは、彼が私のような考え方は 「物事を遅らせ、最終的にはイノベーションを妨げる 」と示唆したことです。このやりとりはすべて韓国語で行われましたが、私の脳裏をよぎった英単語が1つあります。彼は要するに、私をラッダイトであると促していました。
元祖ラッダイト
現在の英語では、ラッダイトとは 「新しい技術や作業方法に反対する人」を意味しています。テクノロジーについて有意義な会話を求めることが多い私のような人間にとって、ラッダイトとは魔法の言葉のようなものです。誰かがLワードを口にした瞬間、私は自動的に反テクノロジー、あるいは反進歩者の烙印を押され、建設的な対話を続ける余地はほとんどなくなってしまいます。私はこのことを非常に腹立たしく思います。
正直なところ、私はテクノロジーの進歩を止めたり、テクノロジーそのものを否定したい訳ではありません。また、それが現実的な考えであるとも思いません。私はただ、テクノロジーが公共にとって有害であるかどうかを判断し、必要であればそれに対し異議を唱えることが重要であると考えています。テクノロジーの進歩を真っ向から否定するのではなく、思慮深く進歩することが大切であると私は考えます。
実際、E.P.トンプソンや、最近では『https://www.amazon.com/Blood-Machine-Origins-Rebellion-Against-ebook/dp/B09N3G2TG9)』を書いたブライアン・マーチャントのような歴史家によると、これが本来のラッダイトの姿なのかもしれないと述べている。話は1811年12月15日に遡ります。ノッティンガムの繊維工場では、工場主が彼らの労働を自動化するレースフレームと呼ばれる機械を導入したことにより、働く2万人のイギリス人繊維労働者が余剰人員となりました。結果、労働者達は失業し、機械を破壊するため工場に押しかけました。政府は治安、秩序の回復のため、6連隊の兵士を派遣し、数十人の労働者が絞首刑に処すか、その場で労働者を殺害しました。ラッダイトは、レスター近郊で織物見習いをしていたとされるネッド・ラッドが、ハンマーで横編機を破壊し、雇用主に抗議したことに由来します。
1812年、ここに描かれたネッド・ラッドは、実在した数々の抗議運動の架空の指導者でした。
興味深いことに、元祖ラッダイトは、熟練した織物職人達のことであり、テクノロジーが嫌いという一般的なイメージとは裏腹に、実際にはテクノロジーに対する高度な理解を持っています。工場を襲撃し、機械を壊すことは、テクノロジーの進歩に対する単純な抵抗ではなく、賃金を下げられ、労働条件を悪化させられた、工場労働を強制するような特定の形態におけるテクノロジーの使用に対する抗議の形でした。
最終的にラッダイトは敗北したため、この言葉は後進的で時代に逆行するものを意味するようになったのも無理はないです。その歴史的な戦いの勝者、すなわち実業家たちは、物語を形成する機会を得ました。そのため、ラッディズムは時代に逆行するものだという考えを歴史に印象づけることができ、事実上、プロパガンダ・キャンペーンを展開することができました。
ネオ・ラッダイト
元祖ラッダイト運動から約200年後、私たちは現在、気軽に 「ネオ・ラッダイト」と名乗る人々の出現を目の当たりにしています。こうした現代の反対派には、19世紀の反対派と多くの共通点があります。手始めに、彼らの多くは19世紀の熟練した繊維労働者のようなテック業界のインサイダーです。さらに、彼らの議論はしばしば「私はテクノロジーそのものに反対しているわけではない」という宣言から始まります。シリコンバレーが制御不能な成長を遂げ、AI技術がますます浸透していることを背景に、ネオ・ラッダイトたちは、特定の文脈においてテクノロジーが実装される方法への不快感を表明することから逃げず、より公平で民主的なテクノロジーの発展を求めています。
彼らは口先だけでなく、それ以上のことをしてきたと言ってもいいです。例えば、昨年大流行した「コーニング」キャンペーンを考えてみましょう。サンフランシスコで増え続ける自動運転車に抗議するため、セイフ・ストリート・リベルとして知られるベイエリアのグループが、自動運転車の上に三角コーンを置くとその場で運転を停止することを発見し、この結果について抗議しました。ほどなくして、全米脚本家組合は146日間のストライキを実施し、一部の報道機関は「人間とAIとの最初の職場闘争」と呼びました。この抗議の精神は、アレックス・ウィンターが執筆した論説の中で捉えられており、「AIやその他のテクノロジーによって我々が直面する問題を解決する方法を知りたければ、ラッダイトになりなさい」という言葉で締めくくられました。一方、一般市民も様々な形でラッディズムを実践しており、スマートフォンのような遍在するテクノロジーから離れ、意図的に代替的な生活を築こうとするラッダイト・ティーンズが見られるようになりました。
三角コーンが上に置かれたロボタクシー(出典:BBC)
勝者の知恵
コーニング・キャンペーンとラッダイト・ティーンズには、テクノロジーと私たち自身との双方向の関係を承認するという共通点があります。この考え方では、テクノロジーは単に実用性を最大化するための道具としてではなく、私たちの生活を形作ることができる純粋なものであると捉えています。テクノロジーに引きずられて受動的になるのではなく、運転席に座り、主体的に行動する力を与えてくれます。
この観点からすると、ラッディズムは私たちの日常生活とそれほどかけ離れたものではないです。例えば、デジタルデトックスツールやリトリートの数々は、テクノロジーから距離を置き、考える時間を提供する現代のラッダイトの実践とも言えます。個人がデジタル技術との関係を見直すための強力な手段として役に立ちます。19世紀以降、私たちの生活におけるテクノロジーの役割は劇的に拡大し、多くのことが変化しましたが、多くの点で、この考え方は当初のラッダイトの精神を受け継いでいると言えます。
元祖のラッダイトたちは戦いに敗れたが、彼らの大義は、1978年の著書『自律的テクノロジーズ(Autonomous Technologies)』でラングドン・ウィナーの考えと共鳴する: ラングドン・ウィナーは1978年の著書『自律的技術:政治思想のテーマとしての制御不能な技術』において、「認識論的ラッディズム」を採用する必要性を強調しました。この概念は、社会におけるテクノロジーの役割を批判的に検討することを強調し、より広範な知的運動の一部です。ウィナーは、「ある場合では、学習のための空間と機会を創出するために、技術システムを解体したり、プラグを抜いたりすることが有効かもしれない」と主張しました。そうすることで、あるテクノロジーとその社会的背景が、私たちの行動をどのように規定しているのかをより注意深く評価することができます。基本的に、認識論的ラッディズムは、自律的なテクノロジーに直面している私たちが自律性を維持するのを助けてくれます。
これが我々が再解釈し、継承すべき真に現代的なラッディズムの姿です。ラッディズムの素晴らしさは、私たちが築き上げ、築き上げ続けている世界に対する批判的な考察と評価を可能にする能力にあるのです。時に、私たち自身が組み込まれているシステムを壊し、解体することを意味します。著者のコーリー・ドクトロウは、このプロセスをSFに例えています。単にテクノロジーが何をするかだけでなく、誰のために、誰に向けてそれをするのかに挑戦します。
「何を争っていたのか?新しい機械の使用を支配する社会的関係である。(ラッダイトたちは、SF作家なら誰でもすることをした。ある技術を取り上げ、それがどのように使われるか、誰のために使われ、誰に対して使われるかを想像したのだ。彼らは、右のフォークではなく、左のフォークが使われるパラレルワールドの創造を要求したのである。」
昔のラッダイトを再訪
私達が生きる時代は、テクノロジーが私たちの何歩も先を進んでいると感じることが多い時代であり、私達はその進歩に戸惑いながら毎朝目覚めます。同時に、今日のマスメディアの多くは、黄金の未来を描くテクノロジー・ユートピアンと、悲惨な結果を予測する破滅論者という、両極端のオピニオンリーダーによって占められています。テクノロジーに対する楽観主義と悲観主義の中間、つまり、テクノロジーの潜在的な利点を認めつつ、その広範な影響を批判的に評価する細かな差異のある議論の場を確立するためには、もっと多くのことをなされなければなりません。テクノロジーの未来と真の進歩の意味について、技術の中のテクノロジーだけでなく、生活のあらゆる分野も含めて、どのような立場に立つかに関わらず、新しいアイデア、発明、革新に反対することが進歩のために不可欠であることは明らかです。AIのようなテクノロジーは間違いなく世界に利益をもたらす可能性を秘めていますが、歴史的に見て行くと、その利益の分配は決して自動的なものではなかったことを思い出す価値があります。ダロン・アセモグルが著書『権力と進歩 (Power and Progress)』で論じているように、それは常に現状に不安を感じた人々の行動によってもたらされたのです。元祖ラッダイトをもう一度見直し、彼らが現代において何を象徴しているのかについて再考する時なのかもしれません。
Joseph Park is the Content Lead at DAL (joseph@dalab.xyz)
Illustration: Asuka Zoe Hayashi
Edits: Janine Liberty